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Sunday, March 16, 2014
伊勢長島願證寺,一向一揆殉教の碑
物流拠点としての経済的成長を背景に台頭してきたのが、長島願證寺の勢力。明応10年(1501)、浄土真宗(一向宗)の中興の祖・蓮如の子蓮淳が長島願證寺に入ったことにより、浄土真宗の教勢は拡大。その勢力は長島・桑名を中心に。現在の尾張西部・美濃南部・北勢地方に広がっていった。交通の要衝であり、低湿地で要害の地である長島は一向宗拡大を図るための重要な拠点。天文6年(1537)に、願證寺は長島を支配していた伊藤一族を追放し、長島は願證寺の領地となった。益々強大化する一向宗の勢力を危惧したのは、尾張地方を中心に着々と勢力拡大を図っていた織田信長であった。天下をめざす信長は京へ上る前年の永禄10年(1567)北勢に侵入した北勢48家といわれた豪族達を破り、続いて永禄12年には南勢の北畠氏も滅ぼした。こうして信長は伊勢全土を制圧するが、なおも信長に反抗していたのが願證寺を中心とする長島の一向門徒達。10万人を超える勢力であった。この一向門徒達と信長の間で起った戦いが『長島一向一揆』と呼ばれる日本の歴史上で最も有名な宗教戦争であり、激しく悲惨な戦いであった。元亀2年(1571)を皮切りに戦いは3回に渡って行われ、最期まで砦に残っていた男女2万人余りは、周囲に柵を設けて閉じ込められ、四方から火を放たれて焼き殺された。その死者は現在の長島町の人口の2倍以上。こうして長島一向宗は壊滅した。